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2021.8.2

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「勉強法」という言葉について:シリーズ自学自習を考える(2)

近年、「勉強法」という言葉をよく聞くようになった。それはもちろん、パラリアもその一つである、自学自習タイプの塾の台頭と並行する現象だろう。古いタイプの塾や予備校は「授業」を売りにした、いまの自学自習塾は「勉強法」を売りにしているというふうに整理することも、ある程度までは、可能であるだろう。

では、この「勉強法」なるものについて、私たちはどう考えればいいのだろうか。今回の記事では、自学自習を考えるために、現代において、それと切っては切れない関係にあるらしい「勉強法」というものについて、より特定して言えば、世に数多出回る「勉強法」なるものにどう向きあえばいいのかについて、考えてみたい。

結論を先に述べてしまうなら、私の考えは「最強の勉強法というようなものは存在しないが、間違った勉強法は存在する、ということは、その裏返しに「これに反してはいけない」というような最低限の勉強法(のルール)というものは存在する。このことからして、この最低限の勉強法を超えて、世に多数提唱されている勉強法は、絶対の正解としてではなく、一つの可能性の提案として受け止められるべきであって、ある科目に取り組む自分にとって最良の勉強法は、勉強するなかで自ら見出していくしかない」という、おそらくはこの上なく穏当といって差し支えないものである。

1、「最強の勉強法」は(たぶん)存在しない

さて、「最強の勉強法」というような言葉を聞くことがある。このようなあまりに「強い言葉」が、情報が限度を超えて過多になり、そのなかで人々の関心をいかに惹くかということがますます重要な課題になっている、いわゆる「アテンション・エコノミー」的な現代において、より多く聞かれるようになるということは、確かに理解可能ではある。「あまり強い言葉を遣うなよ。弱く見えるぞ」という名言は確かに正鵠を射ているにしても、それに対する現代人の答えは「いくら弱く見えようが、そもそも見られないよりはましである」というものなのだろう。

そういうわけで、このような言葉が流通するようになるわけだが、それにもかかわらず、やはり、おそらく、「最強の勉強法」なるものは存在しないように思われる。というのは、結局のところ、勉強とは、勉強する主体と勉強される客体(科目等々)との関係であり、その関係性をうまく統御する方法(これがつまり勉強法だろう)は、その主体・客体のあり方によって様々、それこそ無数にあるのであって、あらゆる主体とあらゆる客体を横断して、全てに対してベスト(=最強)な方法など存在するはずもないからである。

2、「間違った勉強法」、あるいは「最低限の勉強法」は存在する

他方で、「間違った勉強法」というものは存在するだろう。それを裏返せば、これはさすがに前提にしようという「最低限の勉強法」というものも存在するだろう。ただ、それは具体的に何をどう勉強するという方法論の次元ではなく、より抽象的なルールとして定義されるべきである。すなわち、「間違った勉強法」とは、あまりに当たり前のことをいうことになるが、まずもって「目的を意識しない勉強法」であり、やや本質からは外れるかもしれないが、わかりやすい次元で言えば、「定着を意識しない勉強法」である。

さて、勉強には目的があるはずだ。もちろん、大学受験塾であるパラリアが想定するのは、主に大学受験である。これを例としてとりあげれば、その前提のもとでは、なぜ勉強しているかといえば、その目的は大学受験に合格するためであり、ここが重要なところだが、受験当日に受験会場に行って制限時間内で問題を解いて解答用紙に答えを記入し、その答案を大学側に評価してもらって合格最低点を上回る点数をとることである。

このような目的を意識するだけで、勉強において様々な姿勢が変わっていくはずである。ただ、勉強をするだけでは意味がない、たとえば、勉強した内容を試験当日に覚えていないようでは意味がないし、思い出せるにしても時間がかかって制限時間内に解けないようでは意味がない、等々。

もちろん、このように考えていけば、基礎的な内容を学習した後ではいち早く過去問に取り組み、どの程度の問題をどの程度の時間で解くことが要求されているのかをなるべく早めに知ることが重要になる。その要求を満たせるように勉強を構成していく必要があるからだ。

ただ、こういったことを言い出すとキリがないので、思い切り単純化して言えば、これだけは譲れないという最低限のラインは「定着を意識しない勉強法」はダメだというものだろう。勉強は必ず何か目的があり、それは一般的に言えば、将来において何らかの仕方で用いるということなのだから、その時に引き出せるようになっていない、つまり、定着していないのでは、その勉強には意味がないということになってしまうからである。

3、世間のいわゆる「勉強法」への向き合い方

そういうわけで、私の考えるところでは、とにかく万能な最強の勉強法などは考え難いのだが、他方で、とにかく守るべき最低限の勉強法(のルール)というものが、具体的に何をどうするという方法論、いわば手段の次元ではなく、抽象的なルールの次元、目的の次元に存在する。それは結局のところ、勉強の目的を意識することであり、簡単に言えば、定着を意識するということである。

さて、この観点から、世間で紹介されている各種の勉強法への向き合い方を導き出すことができる。世間で紹介されている各種の勉強の大半は、おそらくは、その紹介者自身がその方法を用いることで首尾よく目的を達成し得た、つまり、効率よく学習内容を吸収し定着させることで、試験で合格する等のことができた勉強法である。

それはそれで一つの成功事例であり、参考にする価値はあるが、先に述べたことより、それが何か全てを解決してくれる魔法のようなものだと考えることは禁物である。それは、定着という目的に対する一つの道の提案でしかなく、道は他にも無数にあるのであって、自分に合ったものがその道であるとは限らない。自分に合ったものは、様々な勉強を参考にして取り入れつつも、結局、自分で見つけるしかないのである。

では、そのために何が重要かと言えば、大きく二つのことを挙げることができるだろう。第一は、まずもって勉強法を考えるのではなく、勉強をしてみることである。勉強とは、私という他人と異なった独自の存在と、ある特定の科目という、これまた他の科目とは異なった独自の存在を持つものが出会うという出来事であり、その両者の独自性ゆえに、両者の関係を前もって完全に統御する方法を知ることはできない。それを少しでも知るためには、まず勉強という活動の中へと入っていかなければならないのだ。

第二は、定着に関する小まめな検証である。第一に重要なのはまずもって勉強することだとしても、ただ勉強するだけでは、それがうまく行っているかは分からない。小まめに定着を検証して、それが不十分であればやり方を調整していく必要がある。それは、まず勉強のために何かを読んだら、即座にテキストを閉じて内容を言えるかという最小単位の検証から、一日の終わりに今日学んだことを再現できるかという検証、一週間の終わりに今週解いた問題が解けるかという検証、そして、ある程度の期間を経たら、それで過去問が少しでも解けるようになっているかの検証という風に多段階で行われるべきである。

そして、どの段階であれ、そこで何か十分にうまく行っていなければ、なにがしか勉強法を改善する必要がある。このような勉強→定着の検証→失敗→原因の特定と改善の繰り返しの中で、自分についても、科目の特性についても、目標とする志望校の過去問についても、知見が蓄積されていくだろう。「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」とはよく言ったものである。

 

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