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2021.7.4

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なぜ教科書や参考書の解説は(ある場合には)十分ではないのか? シリーズ自学自習を考える(1)

今後、自学自習塾を運営する立場から、自学自習についていろいろと考えていこうと思います。今回は、自学自習の「塾」が存在する理由の一つである「なぜ教科書や参考書の説明は(ある場合には)十分ではないことが多いのか?」という問題について書いてみたいと思います。

教科書や参考書に「あまり書かれていないこと」とは?

教科書は別として、最近の参考書は年々解説が詳しくなっており、以前よりも格段に分かりやすくなっています。しかし、いくら詳しく分かりやすく書いたところで、教科書や参考書には原理的な限界があるように思います。そこには書かれていないこと、書かれ得ないことがあるように思うのです。その「書かれていないこと」とはなんでしょうか。

一言で言えば、多くの場合、教科書や参考書では、そこで扱っている事項につき、「それが何であるか」は述べられていても、「それが何でないか」、そして「それが別の場所で扱われている事項とどう同じでどう違うのか」は書かれていないのです。

それが教科書や参考書にあまり書かれないのはなぜか?

もちろん、教科書や参考書の役割は「それが何であるか」の説明までだとも言えましょう。「それが何でないか」「それが別の場所で扱われている事項とどう同じでどう違うのか」という問題は、受け手の側で、教師の手を借りることも含めて、広い意味で自力で解決してもらうしかないというのも、妥当な立場でしょう。

というのも、「それが何であるか」というのは「それ」に限定された問題なのに対して、「それが何でないか」「それが別の場所で扱われている事項とどう同じでどう違うのか」というのは、ある意味で、「それ以外の全て」にわたりうる無限定の問題で、受け手がどう想像し考えるのかに応じて無限に広がりうるからです。

簡単な例で説明すれば、「りんごは何であるか」という問いには、例えば、「りんごは赤い果物です」などと答えられますが、「りんごは何ではないか」という問いに対する答え方は無数です。

そして「それが何であるか」はちゃんと書いてあるのだから、そこから自分で敷衍して考えていけば、「それが何ではないか」「他のものとどう同じでどう違うか」はすべては明確になるはずだというのも、正論です。

とはいえ、やはり典型的な勘違いというものは存在するので、それに関して詳しく説明をしておいてくれれば、もっと自学自習がしやすくなるのになと思います。

教師の存在価値はどこにあるのか?

他方で、もう少し考えてみると、自学自習中心の学習塾がそれなりに価値を持っているのは、「それが何でないか」「それが別の場所で扱われている事項とどう同じでどう違うのか」を書きつくすことが原理的に不可能であり、また多くの学生にとって、「それが何であるか」について書かれたことから、「それが何でないか」「それが別の場所で扱われている事項とどう同じでどう違うのか」について自分で正しい答えを作り出していくということが極めて困難だからだというのも、否定し得ない事実です。

「それが何であるか」についての通り一遍の説明を行うことにではなく、生徒それぞれの誤解、勘違い、混同の種類を見分け、それを正しい理解に修正するために適切な説明を用意すること、そこにこそ、その事柄について深く理解している人間、つまり、教師というものの存在意義があるように思うのです。

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